年の瀬に、素晴らしい展覧会に出会うことができた。
銀座和光の和光ホールで行われた、佐賀県唐津で作陶されているうつわ作家、天平窯 岡晋吾さんの展覧会「今がまま」である。
唐津ではお目にかかれずにいたので、晋吾さんが銀座和光で展覧会をされると伺うや否や、トークショーの予約をして鎌倉から車を走らせ、クリスマスのイルミネーションの美しい銀座通りに降り立ったという訳である。
エレベーターで7階に上がり、ホールの入口に着いた私は、全身から力が抜けるのを感じた。圧倒的なエネルギーと美を前にすると人は言葉を失う。そしてそれを表現する言葉を自分の辞書から探し出そうとするのだが、見つからないという苛立たしさに対峙することになる。まさにそのような体験が2,3秒の間に私の体と精神の間にやり取りがなされたようだった。そこにあったのは、まさに晋吾さんの宇宙だった。
想像していたのは、ホールに百点ほどの作品が並んで、その中で晋吾さんがお話されるというお姿だった。でも現実は、全く違った。小さな美術館ほどの広さはあるだろうと思われるホールが、数百点の作品とお客様で埋め尽くされていて、作品の大きな壺で晋吾さんのお顔が見えないほどだった。和光の社員さんに伺うと、この展示会のために2年ほど前から千点以上の作品を作られて来たのだそうだ。千点という作陶のために土に昼夜向かい続けながら、作品には一つとして惰性や疲弊を感じさせるものはない。むしろ作品の中にも進化があり、それぞれに真摯に、愉快に作り続ける晋吾さんの姿が見える。いやはや、こんな仙人のようなことをどのように成し遂げるのだろう。
日常使いできそうな平皿から、花器、重箱、水指、壺まで、染付、絵付け、安南、自由自在に色を変え、手法を変え、空間をはらはらと舞うように目に入ってくる花鳥風月の世界。まるで、自分の精神に花吹雪がふわっと散ってくるような、滅多に出会えない自由、美との邂逅だった。どこぞの3次元体験空間どころの話ではない。
トークショーは、八雲茶寮などを手掛ける、SIMPLICITYの緒方慎一郎さんとの45分ほどの対談だった。その中で、お二人の日本の伝統文化が音もなく消えていく現代、今後への憂いというものを強く感じた。晋吾さんの絵付けで使われている朱色の絵の具を作る絵の具屋さんが店仕舞してしまうらしい。「この赤色は、この絵の具屋さんにしか出せないんです。だから、もうこの赤は5年後には見ることができません。」とさらっと仰った。そういう流れがあるので、晋吾さんはなるべく自分の技術や手法を若手にどんどん伝授しているのだという。どのように作るのか、を訊かれても隠すことなく話すのだという。ふと、2年前にインドの知人と訪れた藍染の職人の方から「私は弟子を撮っていないので、もう作れませんし、工房をたたむしかありません。」と言われたのを思い出した。 「どれだけ言葉で話しても、同じように作れるわけではない。それでも次の世代に渡していかないと、自分が見つけ出した技術や考えは、自分がいなくなれば消え去っていく。」と晋吾さんは仰る。それに対して緒方さんは「日本には秘伝という言葉がありその慣わしがあるが、それが結局日本の伝統文化を廃れさせる原因にもなっているのでは。」と返答されていた。
自分よりも30歳近く上の巨匠と言われる陶芸家が展覧会のために1000点以上の作陶している。自分が陶芸家ならば2000点以上作らなければ、それに追いつけないだろう。私が60歳になった時、若い世代に預けられるもの、預けるに値するものとはなんだろうと考えた。たった45分の間に、大切な人生の指針を頂いたような気がしたのである。
晋吾さんとようやくご挨拶をすることができた。「ああ、あなたか!」と応答してくださった。巨匠と呼ばれ、先生と呼ばれる方でありながら、肩の力が抜けていて、器に纏わる話や笑い話を沢山してくださった。次回、唐津の陶房でお目にかかれることが楽しみでならない。それを考えるだけで今日明日の仕事が頑張れそうだ。残念ながら、展覧会は写真撮影が許可されなかったため、この記事には写真がない。一つ一つの晋吾さんの作品を私は目に浮かべると、夢の中で見た桃源郷にも思えてくる。人生の中で、一体何度このような展覧会に出会えるだろう、と考える。
大切に保管している、阪急百貨店が刊行していた「阪急美術」という冊子がある。阪急百貨店で「北大路魯山人の個展が行われ、、、」「、、、濱田庄司より」と当たり前のように書かれている。まさか魯山人が、今やここまでの偉人になろうとは、当時の人も想像できなかっただろう。歴史はたった今作られているのだと改めて実感する。今日の晋吾さんの展覧会は30年後、50年後、きっと伝説の展覧会と呼ばれることになることだろう。それを垣間見れたことに、ひたすら感謝しかないのである。
若い年代の方々特に学生が、ああいった話を聴く機会がもっとあればと心から思う。
そして、展覧会やお話を形にしたアーカイブがあればと心から願う。個人的には、図録が欲しかったのである。
銀座和光の和光ホールで行われた、佐賀県唐津で作陶されているうつわ作家、天平窯 岡晋吾さんの展覧会「今がまま」である。
唐津ではお目にかかれずにいたので、晋吾さんが銀座和光で展覧会をされると伺うや否や、トークショーの予約をして鎌倉から車を走らせ、クリスマスのイルミネーションの美しい銀座通りに降り立ったという訳である。
エレベーターで7階に上がり、ホールの入口に着いた私は、全身から力が抜けるのを感じた。圧倒的なエネルギーと美を前にすると人は言葉を失う。そしてそれを表現する言葉を自分の辞書から探し出そうとするのだが、見つからないという苛立たしさに対峙することになる。まさにそのような体験が2,3秒の間に私の体と精神の間にやり取りがなされたようだった。そこにあったのは、まさに晋吾さんの宇宙だった。
想像していたのは、ホールに百点ほどの作品が並んで、その中で晋吾さんがお話されるというお姿だった。でも現実は、全く違った。小さな美術館ほどの広さはあるだろうと思われるホールが、数百点の作品とお客様で埋め尽くされていて、作品の大きな壺で晋吾さんのお顔が見えないほどだった。和光の社員さんに伺うと、この展示会のために2年ほど前から千点以上の作品を作られて来たのだそうだ。千点という作陶のために土に昼夜向かい続けながら、作品には一つとして惰性や疲弊を感じさせるものはない。むしろ作品の中にも進化があり、それぞれに真摯に、愉快に作り続ける晋吾さんの姿が見える。いやはや、こんな仙人のようなことをどのように成し遂げるのだろう。
日常使いできそうな平皿から、花器、重箱、水指、壺まで、染付、絵付け、安南、自由自在に色を変え、手法を変え、空間をはらはらと舞うように目に入ってくる花鳥風月の世界。まるで、自分の精神に花吹雪がふわっと散ってくるような、滅多に出会えない自由、美との邂逅だった。どこぞの3次元体験空間どころの話ではない。
トークショーは、八雲茶寮などを手掛ける、SIMPLICITYの緒方慎一郎さんとの45分ほどの対談だった。その中で、お二人の日本の伝統文化が音もなく消えていく現代、今後への憂いというものを強く感じた。晋吾さんの絵付けで使われている朱色の絵の具を作る絵の具屋さんが店仕舞してしまうらしい。「この赤色は、この絵の具屋さんにしか出せないんです。だから、もうこの赤は5年後には見ることができません。」とさらっと仰った。そういう流れがあるので、晋吾さんはなるべく自分の技術や手法を若手にどんどん伝授しているのだという。どのように作るのか、を訊かれても隠すことなく話すのだという。ふと、2年前にインドの知人と訪れた藍染の職人の方から「私は弟子を撮っていないので、もう作れませんし、工房をたたむしかありません。」と言われたのを思い出した。 「どれだけ言葉で話しても、同じように作れるわけではない。それでも次の世代に渡していかないと、自分が見つけ出した技術や考えは、自分がいなくなれば消え去っていく。」と晋吾さんは仰る。それに対して緒方さんは「日本には秘伝という言葉がありその慣わしがあるが、それが結局日本の伝統文化を廃れさせる原因にもなっているのでは。」と返答されていた。
自分よりも30歳近く上の巨匠と言われる陶芸家が展覧会のために1000点以上の作陶している。自分が陶芸家ならば2000点以上作らなければ、それに追いつけないだろう。私が60歳になった時、若い世代に預けられるもの、預けるに値するものとはなんだろうと考えた。たった45分の間に、大切な人生の指針を頂いたような気がしたのである。
晋吾さんとようやくご挨拶をすることができた。「ああ、あなたか!」と応答してくださった。巨匠と呼ばれ、先生と呼ばれる方でありながら、肩の力が抜けていて、器に纏わる話や笑い話を沢山してくださった。次回、唐津の陶房でお目にかかれることが楽しみでならない。それを考えるだけで今日明日の仕事が頑張れそうだ。残念ながら、展覧会は写真撮影が許可されなかったため、この記事には写真がない。一つ一つの晋吾さんの作品を私は目に浮かべると、夢の中で見た桃源郷にも思えてくる。人生の中で、一体何度このような展覧会に出会えるだろう、と考える。
大切に保管している、阪急百貨店が刊行していた「阪急美術」という冊子がある。阪急百貨店で「北大路魯山人の個展が行われ、、、」「、、、濱田庄司より」と当たり前のように書かれている。まさか魯山人が、今やここまでの偉人になろうとは、当時の人も想像できなかっただろう。歴史はたった今作られているのだと改めて実感する。今日の晋吾さんの展覧会は30年後、50年後、きっと伝説の展覧会と呼ばれることになることだろう。それを垣間見れたことに、ひたすら感謝しかないのである。
若い年代の方々特に学生が、ああいった話を聴く機会がもっとあればと心から思う。
そして、展覧会やお話を形にしたアーカイブがあればと心から願う。個人的には、図録が欲しかったのである。