唐津焼の次世代「洋々閣、岡本修一さんを訪ねて」
Next generation of Karatsu pottery "Yoyokaku, visiting potter Shuichi Okamoto"
(2022.01.27)
秋深まる唐津へ
11月の中旬、若手の作家さんを訪ねたいと考え、三度目の唐津訪問が叶った。今回は主人も一緒に旅をすることになった。私が唐津から戻るたびに、唐津自慢を滔滔と話し始めるので想像が膨らみ、居ても立ってもいられなくなったようだ。最初は佐賀の美味しい日本酒が呑めるのでは、というのが彼の最大のモチベーションだったようだが、今思えば、それ以上に、作家さんをはじめ唐津に暮らす人たちの軽やかな生き方、人生に嬉戯する様子に刺激されたようで、初めての佐賀を大いに堪能していたように思う。
大正時代の唐津を今に伝える、洋々閣
洋々閣は、唐津駅から歩いて10分ほど、虹の松原の西側からほど近いところにある。飲み屋や喫茶店などの小さなお店が並ぶ商店街などのアーケードを通り過ぎると、突然100年タイムスリップしたような美しい格子と杉板貼りの外壁、石畳の玄関が現れる。大正元年に作られた玄関先はその当時のままだという。清掃の行き届いた館内、丁寧に手入れされた松の庭を見ると、唐津という風土、人が育てきた美意識を自分たちが受け継ぐという気概と覚悟を感じずにはいられない。この庭園の松を見ると、海風に当たりながら枝や葉を靡かせ、何十年も吹いてきた風をそのまま形取ったような「時」の彫刻を眺めているような気分になる。
玄関から美しく伸びる廊下の先には、中里隆さん、太亀さん、健太さん、花子さんの作品が展示されている贅沢な空間がある。隆太窯をはじめとする唐津焼作家の器に盛られた、しみじみ美味しい懐石をいただいて、お風呂上がりの良い気分で眺めていると、どれもこれも欲しくなるから注意が必要である。今のご主人の大河内さんは五代目で、隆太窯と洋々閣の歴史、隆さんが作ったというランプシェードや床板の話まで、熱く語ってくださる。
去年は、コロナウィルスで海外客が激減したという話もあった。「松の手入れだけでも相当な時間と労力が必要になる。皆さんに泊まって頂けないと、来年、再来年に洋々閣があるか、本当に分からないのです。」とご主人の大河内さんが笑いながらも切実そうに語る。コロナ禍で失われていく日本の面影は多々あれど、この場所は絶対に失ってはいけない、唐津の歴史と先人が大切にしてきたものの手触りを肌で感じることのできる、唯一無二の場所である。
岡本修一さんの陶房、アトリエ
洋々閣に泊まった翌朝、いつも唐津の作家案内をしてくださる友人が迎えに来てくださった。最初にお目にかかる岡本修一さんは、お父様の岡本作礼さんのもとで修行され、2018年に独立された若手作家である。上り坂の続く山の上に建つアトリエで、奥様とお子様と暮らしながら、作陶をされている。修一さんの作品の魅力は、おそらくお父様から吸収し学ばれた、和食や茶席に使われる、いわゆる伝統的な唐津焼の基本形がきちんと底辺にありながら、彼自身が自分の人生の中で出会った様々な「洋」のデザインのエッセンスが散りばめられており、しかもその融合が一つの形となり、生き生きとした個性になっているところだと思う。
「伝統的な唐津焼は、すでにいろいろな作家さんが作っていらっしゃるので、僕はもう少し現代の食卓に合うものを、と思っています。」と語る修一さん。父親が著名な唐津焼作家だったこともあり子供時代から、焼きものを身近に感じながら育つが、その焼きものが自分には合うかどうか分からない、と感じていたという。「高校を卒業して、大阪のデザイン会社で働いていました。一度は面接に落ちたのですが、どうしても入りたくて直接掛け合って、入らせてもらったんです。子どものブロックやアパレルなどをデザインしたりして、3年間働いた後、自分のやりたいことがよく分からなくなって、悶々としながらひとまず唐津の実家に戻ってきたんです。」お父様の作礼さんのお仕事を手伝いながら、自分自身も作陶をし始め、奥様との出会い、ご子息の誕生もあり、縁と偶然が交差しながら、自然の成り行きで今に至るという。
そんな話を伺いながら、晩秋の木漏れ日の中で、修一さんの奥様が入れてくださった珈琲とアップルパイをいただく。喫茶店で働いていらっしゃったという奥様の珈琲の美味しさに、そこにいた全員が唸っていた。もちろん、珈琲のカップソーサーも修一さんの器である。珈琲をもっと美味しく楽しく飲むための、さりげない縁の厚みや持ち手のこだわり、器としての美しさ、修一さんと奥様が年月をかけて見出した「ちょうどよい」心地よさが伝わってくる。
修一さんの作品の中でも、特に目が釘つけになった器がある。佐賀の麦を釉薬に使い、登り窯で焼かれた青唐津の器である。ひと目見た時は、そこに彫られたモチーフと相まって、中東やインドの古い青銅器のような印象を受けた。そこにさらに陶器らしい光沢感が加わり、古くて新しい景色と鮮烈な存在感をもたらしている。火のあたり具合で、釉薬の色も青銅色が青から緑、薄黄色へと窯変し、ずっと見ていられる万華鏡のような美しさである。
まだ若手でありながら、ここに至るまでにさまざまな経験を積んだ修一さんは、視野が広く現代的で、技術や唐津という風土に関して質問ばかりしても、嫌な顔一つせず嬉しそうに教えてくださるので、学びが非常に多く本当にありがたい。「器を窯で焼くということは、陶芸家にとっては生活がかかっている、いわば真剣な火遊びなんですよ。」と笑いながら教えてくれた。どんな時でも火がファイナルアーティストであり、最後は人間の手を離れ、火に全てを委ねる。陶芸家は人間がどうやっても自然の力に太刀打ちできないことを腹の底から知っている。だから考え方も謙虚でいられるのかもしれない。
絵を描いていらっしゃる奥様からのインスピレーション、日々育つ子供の生命力からのインスピレーション、さまざまな人生体験がこれから修一さんの器にどのような影響と変化をもたらしていくのか、心から楽しみである。
(文章:シャハニ千晶 / 作家訪問の写真:水田秀樹)
11月の中旬、若手の作家さんを訪ねたいと考え、三度目の唐津訪問が叶った。今回は主人も一緒に旅をすることになった。私が唐津から戻るたびに、唐津自慢を滔滔と話し始めるので想像が膨らみ、居ても立ってもいられなくなったようだ。最初は佐賀の美味しい日本酒が呑めるのでは、というのが彼の最大のモチベーションだったようだが、今思えば、それ以上に、作家さんをはじめ唐津に暮らす人たちの軽やかな生き方、人生に嬉戯する様子に刺激されたようで、初めての佐賀を大いに堪能していたように思う。
大正時代の唐津を今に伝える、洋々閣
洋々閣は、唐津駅から歩いて10分ほど、虹の松原の西側からほど近いところにある。飲み屋や喫茶店などの小さなお店が並ぶ商店街などのアーケードを通り過ぎると、突然100年タイムスリップしたような美しい格子と杉板貼りの外壁、石畳の玄関が現れる。大正元年に作られた玄関先はその当時のままだという。清掃の行き届いた館内、丁寧に手入れされた松の庭を見ると、唐津という風土、人が育てきた美意識を自分たちが受け継ぐという気概と覚悟を感じずにはいられない。この庭園の松を見ると、海風に当たりながら枝や葉を靡かせ、何十年も吹いてきた風をそのまま形取ったような「時」の彫刻を眺めているような気分になる。
玄関から美しく伸びる廊下の先には、中里隆さん、太亀さん、健太さん、花子さんの作品が展示されている贅沢な空間がある。隆太窯をはじめとする唐津焼作家の器に盛られた、しみじみ美味しい懐石をいただいて、お風呂上がりの良い気分で眺めていると、どれもこれも欲しくなるから注意が必要である。今のご主人の大河内さんは五代目で、隆太窯と洋々閣の歴史、隆さんが作ったというランプシェードや床板の話まで、熱く語ってくださる。
去年は、コロナウィルスで海外客が激減したという話もあった。「松の手入れだけでも相当な時間と労力が必要になる。皆さんに泊まって頂けないと、来年、再来年に洋々閣があるか、本当に分からないのです。」とご主人の大河内さんが笑いながらも切実そうに語る。コロナ禍で失われていく日本の面影は多々あれど、この場所は絶対に失ってはいけない、唐津の歴史と先人が大切にしてきたものの手触りを肌で感じることのできる、唯一無二の場所である。
岡本修一さんの陶房、アトリエ
洋々閣に泊まった翌朝、いつも唐津の作家案内をしてくださる友人が迎えに来てくださった。最初にお目にかかる岡本修一さんは、お父様の岡本作礼さんのもとで修行され、2018年に独立された若手作家である。上り坂の続く山の上に建つアトリエで、奥様とお子様と暮らしながら、作陶をされている。修一さんの作品の魅力は、おそらくお父様から吸収し学ばれた、和食や茶席に使われる、いわゆる伝統的な唐津焼の基本形がきちんと底辺にありながら、彼自身が自分の人生の中で出会った様々な「洋」のデザインのエッセンスが散りばめられており、しかもその融合が一つの形となり、生き生きとした個性になっているところだと思う。
「伝統的な唐津焼は、すでにいろいろな作家さんが作っていらっしゃるので、僕はもう少し現代の食卓に合うものを、と思っています。」と語る修一さん。父親が著名な唐津焼作家だったこともあり子供時代から、焼きものを身近に感じながら育つが、その焼きものが自分には合うかどうか分からない、と感じていたという。「高校を卒業して、大阪のデザイン会社で働いていました。一度は面接に落ちたのですが、どうしても入りたくて直接掛け合って、入らせてもらったんです。子どものブロックやアパレルなどをデザインしたりして、3年間働いた後、自分のやりたいことがよく分からなくなって、悶々としながらひとまず唐津の実家に戻ってきたんです。」お父様の作礼さんのお仕事を手伝いながら、自分自身も作陶をし始め、奥様との出会い、ご子息の誕生もあり、縁と偶然が交差しながら、自然の成り行きで今に至るという。
そんな話を伺いながら、晩秋の木漏れ日の中で、修一さんの奥様が入れてくださった珈琲とアップルパイをいただく。喫茶店で働いていらっしゃったという奥様の珈琲の美味しさに、そこにいた全員が唸っていた。もちろん、珈琲のカップソーサーも修一さんの器である。珈琲をもっと美味しく楽しく飲むための、さりげない縁の厚みや持ち手のこだわり、器としての美しさ、修一さんと奥様が年月をかけて見出した「ちょうどよい」心地よさが伝わってくる。
修一さんの作品の中でも、特に目が釘つけになった器がある。佐賀の麦を釉薬に使い、登り窯で焼かれた青唐津の器である。ひと目見た時は、そこに彫られたモチーフと相まって、中東やインドの古い青銅器のような印象を受けた。そこにさらに陶器らしい光沢感が加わり、古くて新しい景色と鮮烈な存在感をもたらしている。火のあたり具合で、釉薬の色も青銅色が青から緑、薄黄色へと窯変し、ずっと見ていられる万華鏡のような美しさである。
まだ若手でありながら、ここに至るまでにさまざまな経験を積んだ修一さんは、視野が広く現代的で、技術や唐津という風土に関して質問ばかりしても、嫌な顔一つせず嬉しそうに教えてくださるので、学びが非常に多く本当にありがたい。「器を窯で焼くということは、陶芸家にとっては生活がかかっている、いわば真剣な火遊びなんですよ。」と笑いながら教えてくれた。どんな時でも火がファイナルアーティストであり、最後は人間の手を離れ、火に全てを委ねる。陶芸家は人間がどうやっても自然の力に太刀打ちできないことを腹の底から知っている。だから考え方も謙虚でいられるのかもしれない。
絵を描いていらっしゃる奥様からのインスピレーション、日々育つ子供の生命力からのインスピレーション、さまざまな人生体験がこれから修一さんの器にどのような影響と変化をもたらしていくのか、心から楽しみである。
(文章:シャハニ千晶 / 作家訪問の写真:水田秀樹)